我よ喜べ。この子育てのしんどさが、我に生の実感与えているのだ。

育児

ここ最近妻と以前のようなくだらない冗談を言いながら笑い合う機会が非常に減ったと感じることがある。

それは子供の存在が原因であることは間違いなさそうだ。

子供を常に目を離さず注意していないと何をしでかすかわからないから、頭の中が子供ばかりになってしまうからだ。

仕事で家に帰っても、子供のことで神経をすり減らし、また妻もずっと子供を見ていないといけない緊張感で、神経をすり減らしている。

あまり健全な状態には思えないような気がする。

特に最近は些細なことでイライラするようになった。

私だけでなく妻も同じだ。

新しい家で居住スペースが大きくなることで多少息詰まる環境ではなくなると思ったが、子供の存在とはかくも大きなものなのか。

あまり気分は変わらない。

むしろ期待していた反面、落胆による精神的なダメージが大きいかもしれない。

悩みも増え、疲れも増し、しかしそれでも子供がいない方がマシとは思わない。

それでも、子供はかわいいから、という聞き古された理由というわけではない。

これが究極の人生の暇つぶしだからだ。

子育ては究極の暇つぶしだ、と言い放った有名人が炎上したとのことだが、この有名人が口にする前に私も全く同じ考えを持っていた。

詳細は全く知らないし、どうバッシングを受けているのかもしれないが、子育てのような神聖な行為を、暇つぶしと放言したことに、けしからんと眉を顰めた世間からのバッシングと推察する。

概ね近からず、遠からず、といったところではないだろうか。

バッシングしている群衆は、おそらく、そもそも人生自体が暇つぶしであることに気づいていないのではないだろうか。

我々のような有象無象の一個人の人生などただの暇つぶしで、それ自体に何の意味もない。

生きていようが死んでいようが、世界にとってどうでもいいこと。

その意味のない自分の人生を、どうやって自分で意味を見出すか、という課題に毎日向き合っていることに気づくべきだろう。

生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ

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一定間隔で人生の問いに立ち、人生に悩んでいないと、我々は退屈で退屈で仕方なく、死んだように呼吸するただの有機物の塊になってしまうし、そうなるのがとても怖いのだ。

そしてこの問題を一手に片付けてしまう一大事業がある。

そうそれが子育てなのだ。

だからこそ子育ては究極の暇つぶしであり、子育てこそ無意味な我が人生に彩りを添えてくれる至高であり、むしろ超ポジティブな言葉として言ったのではないだろうか。

振り返ってみると、結婚し、子供ができるまで、私の生活は極めて味気のないものだった。

都心一等地で知り合った、いわゆるエリート階級といわれるような人たちと毎日のように酒を飲んでいた。

酒を飲む予定が毎日のようにあるわけだから、暇な時間はない。

もちろん誘いを断ったり、店にいかなければ、一人で黙々と夕食を済ますだけなので、暇にはなるのだが。

暇であり、退屈な夜を過ごすことを恐れて、街に繰り出していた。

ここで注意すべきなのは暇と退屈は違うのだ。

結婚する前の私の状況は、退屈に支配されていた。

暇な時間を使って、自己研鑽に励むわけではなく、受動的に得られる刺激を求めていたのだが、結果退屈な毎日を過ごしていた。

それは「暇と退屈の倫理学」で語られる、貴族の暮らしの例に似ている。

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貴族は毎日毎晩晩餐会を開き、宴会に興じている。

すなわち招待したり、招待されたり、ずっと予定は埋まっているし、上流階級の人々との交流があるから、空き時間はない。

この空き時間の有無を「暇」と定義している。

それに対して、毎日毎晩宴会に興じている一人の貴族の視点に立ってみる。

毎日変わらない人々との交流と、毎日のようにあっていれば特に変わらない近況の報告を聞いて一日を終える。

帰路に向かう一人の貴族はきっとこう思うだろう。

「はあ、なんか今日も退屈だった」と。

退屈は変化のない環境で感情が動かない時間を過ごすことといえる。

これがまた人間にとってたまらなく苦痛なのだ。

その苦痛に苛まれるくらいなら、最悪、不幸な出来事すら、もはや望んでいる状態になると言っても過言ではない。

さきほど例に挙げた一人の貴族というのが、その時の私に似ている。

貴族と言われるような育ちではないが、医師は世間的にエリートと言われる職業である。

その時の私の周りには、公認会計士、議員、上場企業幹部社員、経営者、地主など、よくここまで意図せず集まったなと思うほど、多彩なエリートが集まっていた。

みんな顔見知りで、予定を合わせずとも、酒場にいけば必ず誰かしらいた。

これは貴族が現代のエリート階級と置き換えられた宴会パーティーのようなものだと思う。

何も変化がない時間を苦痛に感じつつ、顔見知り同士で、その時間を互いに消耗し合って、なんとか退屈を誤魔化し、一日を終える。

そんな無意味な退屈凌ぎの夜を送っていた。

さあ、こんな昔の自分にセネカの言葉を与えよう。

これほど出費をしてまで購う愛しい夜が、彼らにとってあまりにも短過ぎと思われるのも当然ではないか。彼らは夜の待ち遠しさで昼を失い、後朝の恐れで夜を失うのであるから。

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それに引き換え子育てふまえた今の現状はどうだ。

退屈とはほど遠い、苦行の連続ではないか。

苦しみを感じるのは生きている証拠であり、生きているからこそ苦しみを味わうのだ。

仏教の開祖、ゴータマ・シッダールタだって「人生の現実は自己を含めて自己の思う通りにはならず、苦である」いわゆる「苦諦」というじゃないか。

さきの「夜と霧」の著者、ヴィクトール・E・フランクルも「私が恐れるのはただ一つ、私が私の苦悩に値しない人間になることだ」と語っている。

苦しみや悩みこそ、懸命に生を全うしていることなのだ。

決して不幸なわけではない。

真の不幸は、悩むに値しない(と自分が思ってしまうような)人生になることなのだ。

それに比べたら、毎日生き甲斐と言える子供に悩まされ、苦しいと感じる今こそ、「充実した生」を送っている。

と思うようにして、日々子育てに悪戦苦闘している。

30代後半の医師、専門は脳神経外科。医局の出世レースから早々に弾き出され、田舎の病院でシコシコ診療をこなしていた。つい最近結婚して、ほぼ同時期に妻の妊娠が発覚した。毎日同じような診療をこなすことしか能がない医師が、ついに子育てという超一大事業に立ち向かうことになった。スーパードクターとは程遠い平凡な医師が幸せ家族計画を立ち上げてさまざまなことに挑戦している奮闘記ブログ。

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